河畔に咲く鮮花
第三章 二十九輪の花 1:失脚の王・雪
――ピッ、ピッ
規則正しい電子音が響き、心拍の安定を告げていた。
やはり一般市民の区域での治療は難しいのだろうか。
典子は顔を曇らせて、機械を見つめる。
もぐりの医者で、表向きは開業をしていないが、それでも典子はここの医者に頼るしかなかった。
ベッドに横たわり、こん睡状態の覇王・雪――。
あの本玉寺からすでに三ヶ月が経とうとしている。脱出が遅れて覇王は煙を吸い、体を火傷してこん睡状態に陥ってしまった。
典子は命からがら、自分の出身地区・一般市民区域に逃げ込み、兄の手助けでこの医者を紹介された。
その医者はいつもぼさぼさの頭で不潔であり、煙草を患者の前でもぷかぷかと吹かす。
なんとデリカシーのない爺さんだ――典子はそう思うが覇王を助ける為には仕方ないことだった。
今も、覇王の様子を窺いながら片手では煙草を持っていた。
床に落とす灰も典子がいつも掃除をしている。
もし、覇王の寝ている布団に落とそうものなら、いくら助けてくれる医者と言えども、その時は容赦はしない。
典子は憤慨しながらも医者を睨みつける。
――このお方を誰だと思っているのだ。
本来なら一般市民程度の爺さんが触れていい人ではない。
覇王・雪はあまりメディアには顔を出さない。
それもあるかも知れないが、ここまでなにも知らないとは無知というものは時に恐ろしいものだ。
「あんま、可愛い顔で睨みつけなさんな」
典子の恨めがましい視線を感じ取ったのか爺さんはそう言って、ぽいっと灰皿に煙草を投げ捨てる。
「そろそろ目を覚ましてもええ頃じゃのに」
煙草を持っていた手で、爺さんは覇王の瞼を開けたり、閉じたりとしている。それだけでも苛々としたが、ここはもうしばらくの我慢である。
覇王は世間的には行方不明という扱いになっていた。
同時多発テロにやられて、死亡説も噂されている。
本当は、ここにいらっしゃる。
生きておられる。
そう声高にして叫びたいが、それは出来ぬことだった。
本玉寺での後に、一般市民街まで覇者・徳川の家の者と思わしき人達が覇王を探し回っていると兄から聞いた。
もちろん典子の家も問答無用で家探しをされたそうだ。典子はこちらの医者の家に住み込んでいたから助かったものの。
もし、この医者が一般市民の誰もが知っている者であればすぐに覇王は見つかっていただろう。
――それが、ばれたら?
典子はぞくりと背筋を震わせて、寝たままの雪を見つめる。
考えたくはなかったが、あの夜に徳川は覇王を裏切る行為をした。
反勢力の伊達と手を結んだかのように見せ、それもあっさりと裏切り、覇王まで騙した。
覇王が生きていると知れば、今徳川に捕まっている伊達と同じ扱いになるだろう。
あの夜に、大規模なテロが起こり、伊達の本家も襲来されたと聞く。
それに織田家も、西の豊臣家も。
一斉に覇者の権力者たる頭角は崩された。
謀反の罪で捕らわれた伊達はきっと徳川が新生・覇王として戴冠式を終えた後に処刑されるはずだ。
最近、徳川の当主として君臨した若き獅子。
典子はそこまで考えると全身の毛が総毛立つ。
覇王から全てを奪い取り、新生・覇王となるまだ年端も行かない徳川家朝。
ただの少年だと思っていたのが間違いだった。もっと覇王の警護として注意を促すべきだった。
それが覇王の幼き頃からの友と知っていても。
その上、徳川家朝はあの貴族の今川義鷹も配下に置いている。
今川義鷹――あの男もまた覇王を裏切った一人だ。
今川家の前で待たされた典子は、覇王を連れ出す為に、義鷹を気絶させた。
あの男もなにを考えているかがさっぱり分からない。
柔和な笑顔で、たおやかに喋り、人の気持ちにするりと入り込むのに――その腹の奥底は黒く淀んでいる。
裏で色んな策略が蠢いていることを典子は見破れなかった。
だがそれを今更知ったとしても全ては過去のことだ。
――全ては私の失態だ……護衛としての失策……
本来なら覇王を守れなかったとして、自分は大きな罰――いや死罪になってもおかしくはない。
だが雪が目覚めない限りは、本人から罪を償えと言ってくれることもない。
――覇王……私は一体どうしたら……
罪を償うことも出来ず、典子は徳川の家の者から姿を隠しここに雪を匿うことしか出来ない。
――いや、罪を償うことばかり考えてはいけない
典子は静かに寝ている雪を見下ろし、拳をぐっと力強く握り締めた。
今は覇王を命をかけて守り通し、目を覚ましていただくことだけに心血を注ぐべきだ。
今の状態はとにかく危うい。
このまま見つかってしまえば、あの家朝に殺されるかも知れない。
久々に姿を現しメディアの前で見た彼――あの凍てつく寒々しい空色の瞳は底が見えないほど深く、前より濃い闇を湛えていた。
見た瞬間に心臓が凍りつきそうになったのを覚えている。
ああ、覇王――早く目をお覚まし下さい。
織田家は失脚し、それになり代った徳川家朝。
全てはその張りめぐらされた策に――蜘蛛の糸にかかって。
徳川家朝は全てを手に入れた。
今でも脳裏に焼きつく本玉寺での出来事が、典子を苛む。
あの時、気がついていれば。
家朝が裏切ると悟り、覇王を全力で守れていたなら。
家朝に全てが手に入ることはなかった。
そこまで考えて、典子は違うと思い直す。
いや――まだだ。
ふと典子は覇王の花嫁、蘭を思い浮かべる。
まだ蘭様がいらっしゃる。
家朝の手には蘭様はかかっていない。
覇王は気がついて――いや、友達が自分の妻を色目で見ているなど思わなかったのだろう。
だが客観的に見えていた典子にはそれが分かっていた。
徳川家朝が蘭様を焦がれる想いで、見つめていたことを。
――ああ、蘭様。どうかご無事で。
優しき蘭は、覇王と同様に典子の中では敬愛する一人であった。
下慮出身で覇王の妻となったというのに、いつも優しく接してくれた。
あの傲慢な塊の蝶姫からも救ってくれた。
優しく微笑んでくれて、励ましの言葉をかけてくれた。
それを思い出しては胸が熱くなる。
覇王の相手には蘭様しかいない。
公人――彼ならきっと命を賭しても蘭様を守るはず。
典子の目は節穴ではない。
あの人形のような公人も蘭から息吹を与えられ、感情ある者に変貌した。
「早く、蘭様と再会させてあげたい」
典子は祈るような気持ちで呟くと、まだ寝ているだけの覇王の顔を悲しく見つめた。
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