河畔に咲く鮮花  





 最近はフラッシュバックが起きることなく、蘭と公人の人魚の里での暮らしは一ヶ月が過ぎようとしていた。
 里の者とも仲良くなり仕事にも慣れて、公人の腕の怪我も順調に回復している。
 だが、一つだけ変わってしまったのはアユリとの関係だ。
 上辺だけはいつものように話はする。
 それでも、前のようにアユリが蘭にいたずらをして、怒らせたせたり困らせたりすることはなくなっていた。
 ただ、必要事項を連絡している――たったそれだけのこと。
 アユリにはどこか、一線を置かれてしまったような、そんな感じ。
 その理由は分かっている。
 以前に川で話していた時のことだろう。
 中途半端にアユリの闇に触れて、心を傷つけてしまった。
 蘭自身はアユリの為に誠意は尽くそうと思っている。
 だが、アユリの抱えていることが分からなければ、対応も出来ない。
 二人の間に流れる微妙な空気のまま、あれから一ヶ月が来てしまったということだ。
 空をとめどなく流れていく雲の如くうつろぎやすく、いとも簡単に蘭とアユリの関係性も壊れ、時は変わっていく。
 最近では、別々に仕事をすることが多くなり、蘭は里の娘とわきあいあい楽しくお喋りをしながら働いていた。
 公人も最近は回復に向かい、外に出歩くことが多く、里のあちこちで見かけた。
 それもいつも里の娘を引き連れて。
 正しくは、公人の後を追う追っかけとでもいうものか。
 公人はにこやかに笑い、柔和な物腰でたおやかに喋る。
 それは娘達には悩殺もので、いつの間にか公人のファンクラブというものまで出来ていた。
 蘭はそれを見ながら微笑ましく笑う。
 公人が里の者と仲良くしてくれることはいいことだ。
 志紀からもようやく姉離れしたなと皮肉を込められて言われていたこともあった。
 それに対しても、公人はたおやかに微笑み返すだけだが。
 今日も、どこかで公人は里の娘達を相手にしているのだろう。
 それはそれで、良かったが蘭は少しだけ居心地が悪かった。
 今日に限って、久しぶりにアユリと一緒の仕事になったからだ。
 二人は山菜摂りの仕事で、山に入っている。
 もちろん会話は交わす。
 だけど、どこか白々しい上辺だけの言葉。
――このままじゃ駄目だわ……
 アユリは黙々と山菜を探して、蘭からなるべく距離を取ろうとしていた。
 やはりよそよそしい態度で、必要以上にこちら側に入って来てくれることはない。
 アユリは見えないガードを張り巡らし、誰にも入れない聖域を自分の中で作り上げているようだった。
 その痛々しいともいえる、小さな背中を見るとずきりと胸が痛み始める。
 蘭はこのままではいけないと思い、気持ちを固めると、アユリに思いきって聞くことにした。
「……アユリ……ずっと前に話したことだけど、良ければ私に全部話してくれないかな。その、アユリの抱えていることを知って、それできちんと向きあいたいの。あの時は何も知らないのに、中途半端に関わったでしょ。だから――」
「それってなんの話?」
 今まで背中を向けていたアユリがくるりと振り返り、険を含む声音が蘭の言葉を遮った。
 大きな瞳がじっと蘭を射るように見つめる。
 入らせてくれないような壁を目の前に作られてしまう。
――ここで負けちゃ駄目
 ここで引いては前と同じ結果になるだろう。
 蘭はぎゅっと拳を握り締めて、躊躇いながらも口を開いた。
「アユリがなにを抱えていてもきちんと受け止めるから。これは中途半端に言っているんじゃない」

アユリの視線を受けて、必死で誠意を伝える。
 アユリの瞳は一瞬だが細められて、苦しげに漏らした。
「本当に関わる気があるわけ? 蘭姉ちゃんが俺のことを理解して、助けて、救ってくれるの? 全てを受け止めてくれる?」
 その声は呪詛でも吐いているのか、絞り出すような低い囁き。
 それはとても苦しげで、悲しげで。
 関わらないで欲しいと口では突っぱねて、心の中では助けてと必死で願っている。
 その叫びが聞こえたような気がして、蘭は逃げないと決意を固めた。
「うん、受け止めるよ。救うなんて、神様みたいなことは無理かもしれないけど、助けになることは出来る」 
 蘭の強い気持ちを知ってか、アユリの瞳にありありと動揺が浮かぶ。
 それでもアユリはまだ信用をしていないようだ。
「俺を失望させない自信はある? 受け止めるっていった後で、やっぱり無理だって裏切らない?」
 アユリの咎めるような目つき。
 こんなに小さな体でなにを恐れているのだろうか。
「いいよ、これはもう決めたことだし、自分の言ったことには責任は持つよ。アユリには里に来てからずっとお世話になりっぱなしだし。私に出来ることはしたいの」
 蘭の言った言葉にアユリはくっと口の端を上げて笑う。
 なにがおかしいのか分からなくて、蘭は首を傾げた。
「蘭姉ちゃんって笑える。そんなお人好しいないよ」
 自嘲じみた笑いが耳朶に響いたかと思うと、アユリは大きな瞳をきっと上げる。
「じゃあ、そのお言葉に甘えまして優しいお姉さま、俺にその体を抱かせてよ」
 アユリがあまりに平然と言うので、蘭は一瞬なにを言われたか理解が出来なかった。
「えっ?」
 すっ頓狂な声を上げて、アユリの表情を見るが、実に飄々としている
 その様はそんなことで、驚く方がおかしいと思わせるほど落ち着き払っていた。
「聞こえなかった? もっと下衆的に言うと俺に犯させてよ。同意じゃなくてもいいんだ。とことん、犯したいんだ。狂いそうなほど、犯したいんだよ」
 衝撃的な言葉とは裏腹で、にっこりと無垢な笑みを浮かべるアユリに言葉を失ってしまう。
「ねぇ。俺さぁ、あんたを犯したいんだよ。聞こえた?」
 みるみるアユリの瞳に狂気じみた情欲が宿るのを見て、蘭はぞわりと背筋を震わせた。
 困惑して言葉を詰まらす蘭を見て、アユリの瞳にすぐさま失望の色が浮かぶ。
 ――失望させない自信はある?
 アユリの絞り出すような呪詛めいた声が脳に響く。
 すぐに我に返り、アユリに声をかけようとするが、ぴしゃりと心の扉は閉められた。
「ふっ、やっぱりあんたでもそんな申し入れ、受け入られないでしょ。だから、もう俺に関わるな」
 アユリはくるりと背中を向け、どんどんと山の奥へ入って行く。
 その背中を追いかけなければ、二度と戻れない気がした。
 上辺だけの空々しい会話さえこれからはなくなるだろう。
 二人の間には埋めようとしても埋まらない溝がはっきりと今、出来てしまった。
 どうしたらアユリの心を開けるのだろう。
 どうやればあの小さな少年を助けることが出来るのだろう。
 遠ざかる背中は傷つき、ますます自ら孤独の淵に足を踏み入れて、彷徨うとしている。
「アユリ、待って! そっちは道が悪いから行っちゃ駄目って志紀が言っていたでしょ」
 どんどん奥へ進んで行くアユリの背を追い、蘭は小さな肩をがつりと掴んだ。
 だが、アユリは触られたことすら気にくわないのか、思い切りその手を振り払ってくる。
「俺に触るなっ! どけよ!」
こちらに振り返ったアユリは、それだけで気がおさまらなかったのか、ドンと蘭の体を力一杯に押してきた。
「――っ!」 
 足場が悪く、すぐ先は急斜面になっている。
 蘭はぐらりと姿勢が揺れると、足を踏み外した。
「蘭姉ちゃんっ!」
 アユリの伸ばしてきた手を掴もうとするが、その手は空を切って、蘭の体はゆっくりと急斜面を転がり落ちて行った。
「きゃああっ!」
 ザザッと葉や木の間を滑り落ちて、蘭の耳に川のせせらぎが聞こえて来る。
 このままでは川に落ちてしまう。
 だけど、速度を増した体は止まってくれることはない。
 一瞬、体を支える道が急になくなっと思えば、蘭の体はあっという間に川に吸い込まれていった。
 ざばーんっと飛沫を上げて、蘭の体は沈む。
 その時、運悪く蘭は川底の石に頭を打ち付けて、意識が遠ざかっていった。
――アユリ……
 こぽこぽと自分の肺の空気が泡となって、水面にのぼっていく。
 それをうっすらと見ながら、蘭の意識は遠ざかり瞼を閉じた。




**



――目を開けろ。頼む、蘭、目を開けてくれ
 朦朧とした意識の中で悲しそうに――そして強いほど激しい感情をぶつけてくる男の人。
 何度も――何度も唇に暖かい唇を押しあてられて、息吹を吹き込んでくれる。
 いつも冷静で凛とした涼しい声なのに、なにを慌てているのだろうか。
 大丈夫、慌てないで――そう思っているのに言葉が上手く喋れない。
 また唇を押しあてられて、その人が暖かい息吹を吹き込んでくれた。
 そうすると流れこんでくる空気で肺がごぽりと沸いて、急激な吐き気を催した。
「ごほっ、ごほっ! ごほっ!」
 ぬるい液体は喉を通り、今まで押しあてられていた唇から水が大量に吐き出される。
「蘭、大丈夫か? ああ、良かった」
 唇を押しあてて、息吹を吹き込んでくれた青年――志紀。
――ああ、志紀が助けてくれたのだ、まだぼんやりとした意識でそれだけを考えて虚ろに見つめる。
 彼もまた亜麻色の髪をぐっしょりと濡らして、毛先から雫をぽたり、ぽたりと滴り落としていた。
 それがなんだか艶やかで、耽美に見えてしまい思わず口を開く。
「志紀……」
 そう言った蘭の顔を覗き込んで、志紀はようやく安堵した息を吐き出した。
「蘭、意識を取り戻したか。あまり心配させるな」
 志紀は張りついた額の髪を撫で上げてくれて、愛しげに見つめてくる。
 前にもこんなことがあったような。
 誰かに水に落ちたところを助けてもらった。
――そうだ、義鷹様だ
 でも、なんで水に落ちたんだろう。
「姉さん! 良かった、本当に良かった。ああ、心配かけさせないで」
 ぼんやりとした記憶はすぐに消えて、公人に意識が向いた。
 いつの間にか蘭の周りには里の者が詰めかけて来ている。
 もしかして、みんなに心配をかけたのかも知れない。
 取り囲み、顔を覗き込む里の者の中に、アユリの姿を見かける。
「あっ……アユ……」
 そう、声を掛けた瞬間に、アユリは気まずそうに顔を背けてそ
 の場を立ち去ってしまった。
 蘭はいつまでもその小さな背中を見つめて、胸を痛める。
 もう、心は離れてしまった。
 繋ぎとめることは出来なかった。
 そう――確信して蘭は悲しく目を伏せた。



* * *




「ったく、貴様は馬鹿か。あれほど、足場の悪い場所へ入るなと言っておいたのに。おいしそうな山菜があって、採取しに行ったら、足を滑らせて川へ落下だと? アユリが居て良かったな。知らせが遅ければあの世行きだ。本当にどれだけ心配をかければいいのだ。全くお前はずっと監視が必要なのか。首輪をつけてやろうか」
 志紀にはアユリのとのことは伏せてある。
 蘭が勝手に足場の悪い場所へ踏み入れ、足を滑らせたのだと。
 がみがみと説教をしてくる志紀の髪はまだぐっしょりと濡れている。
 早く服を着替えて、風呂に入ればいいのにと蘭はベッドの布団から顔を出してぼんやりと考えた。
 だが、それだけ心配してくれているのだろう。
 それが分かり、蘭は人知れずに笑ってしまった。
――志紀の遠回りの心配は分かりづらいが優しさに溢れている
「な、なにを笑っている? もしかして頭をぶつけた時におかしくなってしまったとか? それとも熱があるのか?」
 蘭の不気味な笑いの意味を分かっていない志紀は一人で慌てふためいた。
 そして、自分の顔を近づけてきて、ぴたりと額をくっつけてくる。
「……っ!」
 蘭の額には志紀の額がぴとりとくっつき、その端麗な顔が間近に迫った。
 蘭は不謹慎ながらもどきどきと胸が高鳴る。
 数センチの距離しかない志紀の顔は酔いしれるほど美しい。
 憂いを含んだ流麗な瞳は長いまつ毛に縁取られ、官能的な唇からは甘い吐息が香ってくる。
 この唇に人工呼吸とはいえ、奪われたと思えば体がカァッと熱くなってきた。
「少し熱いか?」
 志紀の涼しい声音が耳朶に届く。
 至近距離で囁かれて志紀の芳しい息がかかり、ますます体は熱くなる。
 恥ずかしい――意識すればするほど体は固まり緊張した。 
「どうした?」
 不思議そうに眉をしかめる志紀に蘭はごにょごにょとこぼす。
「近い……顔が近い、志紀」
 志紀は目を丸くするが、すぐにその意味を理解したようで、バッと顔を蘭から放した。
「す、済まないな、つい」
 申し訳なさそうに言う志紀の顔は見る見る間に赤く染まっていく。
「今日はとにかくゆっくり寝ろ。お、俺は風呂に入ってくる」
 志紀はくるりと背中を向けて、ぎくしゃくしながら部屋を出て行こうとした。
「志紀……助けてくれてありがとう」
 その背中に向かって蘭は心からお礼を述べる。
 志紀が助けてくれなかったら、今頃この世にいなかったのかもしれない。
 いつも、いつも助けてくれる志紀。
「コ、コホン。そう思うならもう、心配はかけさすな」
 志紀は恥ずかしそうに咳払いをして、振り向くことなく出て行った。








 





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