河畔に咲く鮮花  





 ***



 蘭が目を覚ましたのは、夕方になった頃だ。
 すぐ傍には公人が心配そうにして座っている。
 のろりと体を起こして、蘭は自分がなぜ寝ていたのかぱちくりと目を瞬かせた。
「気がついた? 気分は悪くない?」
 公人がぼうっとしている蘭の顔を覗き込み、様子をしきりに窺ってくる。
「うん……私、どうして寝ているの? アユリと市場に行っていたのに」
――頭が重い……
 頭をぶんっと振るが、全く覚えていなかった。
 アユリと野菜を売ったまでははっきりと記憶に残っているが、なぜ倒れたかが分からない。
「分からないけど、急に倒れたらしいんだ。少し疲れているんだよ。最近は夜遅くまで働いているから」
 公人に手を握られて、蘭はようやく心が落ち着く。
 ざわざわとした不安は心の奥底に沈んでいった。
「起きたのか。これから少し付き合え」
 ノックもせずに蘭の部屋へ入って来たのは志紀だ。
 公人は珍しく不快を露わにして志紀に振り返る。
「志紀殿、姉さんは起きたばかりだ。それに疲れているだろうから、もう少し休ませていただきたい」
 公人が嫌がっているのが分かったが、蘭は少し外の空気も吸いたくなっていた。
 頭が重くて、すっきりとしない。
「……公人君、心配してくれてありがとう。でも、ちょっと気分転換したいから、行ってくる」
 公人は驚いて、蘭に振り返る。
 だけど、蘭の意思を尊重して、頭を縦に振った。
「すぐに戻って来るんだよ。志紀殿、無茶はさせないで欲しい」
「ああ、分かっている」
 志紀はそれだけを言って、さっさと部屋を出て行く。
 蘭はのろりと体を動かせて、志紀の後を追った。
 夏の陽は長い。
 時刻は夜の七時を過ぎているのに、まだ太陽は沈みきっていなかった。
 志紀は言葉を発さずに傾斜を登って行く。
 黙々と歩く志紀の長い影が後ろを歩く蘭に伸びて来る。
 怒っているのか、呆れているのか、その影を見ただけでは窺い知れない。
 市場へ行って気を失い、この里まで運ばれた。使い物にならない役立たずと思われているかも。
 足手まといとはまさしくこのことだ。
 とうとう、この里を出て行ってくれと、引導を渡されてしまう。
――出て行けって言われるかも……
 蘭は覚悟を決めて、志紀の後をついて行った。
 やっと登り切って、志紀はふと足を止める。
「こっちに来て、隣に立って見ろ」
 志紀はくいっと顎をしゃくって、蘭に隣に来いと促した。志紀は腕を組んで、山の上から前方をみやっている。
 蘭はなにがあるのだろうと志紀の隣に立ち、同じように山の下を眺めた。
「うわぁ」
 それを見た瞬間に蘭は感嘆の声を上げた。
 傾斜地に水平に保たれた田が規則的に集積し、それらが一望の下にある棚田の風景。
 それが集落地帯にまで広がり、見たこともない美しい情景を蘭の瞳に映し出した。
 田に植えられている、緑色の稲穂が一斉に風に寄ってざわめき、貯め水は落ちかけた夕日を浴びて、きらきらと輝いている。
――なんて、綺麗な光景
「見たことないか? こういうのを千枚田って呼ぶんだ」
 嬉しそうな声音を含む志紀の口元は微かに微笑んでいた。
いつも怒っているか、不機嫌そうにしている顔は今は穏やかで柔らかい。
「下から見るのと、上から見るのとでは違うのね」
 いつも集落地から段々畑である、この場所を見上げていた。
 だが、一番上から見る景色は息を?むほどの絶景で、あっという間に心を洗っていく。
「見ろ、ここから沈んで行く夕日が最も美しい」
 茜色に染まる空には、驚くほどの大きな夕日が眼前にある。その情景は圧巻で、蘭の心を打った。
 なぜだか手に入りそうな気がして、思わず空を掴む。
「ふっ、なんだ。夕日を掴んでいるつもりか?」
 志紀がおもしろそうに笑い、自然に視線が向く。
 志紀もこちらを見ていたが、その顔は厳しいものではなくとても優しいもの。
 口角をあげて微笑む志紀は、斜陽の中でまるで艶やかな大輪の花を咲かせているようで。
 その様はそこにいるだけで、匂い立つほどの麗しさを湛えていた。
 亜麻色の髪はますます輝き、鮮やかな黄金色に染まる。
――信じられないほど綺麗……
 蘭は初めて、この人は驚くほど美しいと思ってしまった。
 並みではない――人智をも超えた凄絶な美しさ。
 燃えるような紅い夕陽の中で佇む姿は、この世の者ではなく、天上人の如く高潔で優艶だ。
 ――本当にこの人は、神様かも知れない
 その、人を魅了する宝石のような瞳が、真っ直ぐに蘭を捉えてきている。
 今まで感じたことのない胸の高鳴りが蘭を襲った。
――胸が……どきどきする
 体が熱くなり、これは燃えるような夕日のせいではないと悟る。
「見ろ、夕日が沈む」
 志紀がふいに視線を外して、顔を前方に戻した。
 その横顔が赤く染まっているのは、夕日のせいだけなのだろうか。
 きっと蘭の白い頬にも朱が差しているだろう。
 どきどきと早まる胸の前に手を持っていき、山の向こうに沈んで行く夕日を見つめた。
――綺麗……
 掴めそうなほどの大きな夕日が山に姿を隠して行く。今までこんなに美しい情景を見たことがない。
 あまりの感激に胸がじわりと熱くなった。 
「どうだ、いい場所だろ。俺の一番のお気に入りだ。特別に見せてやったのだから、明日からも元気に働くんだな」
 蘭は現実に引き戻され、思わず志紀に振り向く。
 ここに連れて来たのは、志紀なりに元気づけようとしてくれたのだ。
――志紀が……気遣ってくれている……意外……
 そのような考えが浮かび、まじまじと志紀の顔を見る。
 じっと見られてか志紀は照れ臭そうに、少しだけ頬を赤く染めた。
 夕日は沈み切って空は薄闇色に染まり、不思議な色合いを醸し出している。
それをじっと見ていると志紀の腕が伸びてきて、蘭の鼻をぎゅっと摘まんだ。
「貴様に暗い顔は似合わん。馬鹿みたいにはしゃいで、俺に怒られる方が似合っている」
 そう言ってますます鼻を摘まむ指に力が込められる。
「いたたっ、志紀、力が強いよ!」
 蘭の顔がおもしろかったのか、志紀はいつもの微かな笑いではなくて、弾けるばかりの笑顔を浮かべた。
「はははははっ、おもしろい顔だな。ブスがもっとブスになるぞ」
 いつも取り澄ましている志紀からは想像が出来ない豪快な笑い。
 その笑顔を見て蘭はまたどきりと胸を跳ねさせた。
 どうして今まで気がつかなかったのだろう。
 こんなに綺麗な人が、この世にいるとは。
 曇りがちだった景色の全てが、急に色鮮やかに見えて――蘭は密かに胸を高鳴らせた。
「暗くなると足下が危なくなる。降りるぞ」
 ひとしきり笑った後で満足したのか志紀は棚田を後にする。
「おい」
 前方に歩く志紀が、背中を向けたまま蘭に声を掛けてきた。
 次に続く言葉を待っていたが、それ以上はなし。
 なんだろうと思っていると、それは目に入った。
 志紀の左腕がにょきっと、後ろに伸びている。
 手の平を上にして、そこに落ちて来る蘭の手を待っているようだった。
――もしかして、手を繋げって言ってる?
「早くしろ」
 相変わらず志紀は背中を向けたまま、それだけを尊大に言い放つ。
「貴様と手を繋ぎたいわけではない、ただ暗くて足元が悪いからだ。こけて、また倒れても困る。分かっているだろうが……」
 つべこべと言い訳を並びたてる志紀はどこか可愛い。
――素直じゃないんだから
 蘭はくすりと笑うと、しっかり志紀の手に自分の手を重ねた。
 急に握られて驚いたのか、志紀はそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。
――大きい手……
 傲慢で高飛車な志紀の手は、凍りつく冷たさだと想像していたが、それは全く違っていた。 
 しっかりと節くれだった手は何もかもを包み込むように、男らしく暖かく、とても頼もしい。
 志紀の優しさと思いやりに初めて触れて、蘭の心もいつの間にか暖かくなっていった。
「ありがとう、志紀」
 倒れた理由も問いたださずに、ただ美しい景色を見せてくれた。
 心が晴れやかになるようにと、蘭を元気づけてくれた。
 志紀という青年を初めて理解出来た気がして、感謝しきれない思いを託す。
「ふん、なにがだ」
 感謝を述べられた志紀は背中を向けたまま、そうやって鼻を鳴らした。
「今度は、夜の棚田を見せてやる。月と星がまた素晴らしい」
 志紀は一呼吸置いた後に、それだけを言って口をつぐんだ。
――志紀って……優しいのね……本当は……
 蘭はその意思に応えるべく、言葉に出さずに志紀と繋がった手をぎゅっと力強く握り締めた。 
 さっと吹く夏の風が蘭の心を清々しくして行き、初めてこの里に愛着が湧いてくる。
――また明日から元気に働こう。この里に置いてくれる志紀の為にも
 蘭はそう決心して、広く逞しい志紀の背中をいつまでも見つめていた。






 





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