河畔に咲く鮮花  





 今すぐにでも、この逞しく暖かい胸に飛び込んでいきたい。
 激しく抱き締め合いたいという衝動に駆られて、蘭はようやく顔をあげた。
「……はい、森下蘭は命のある限りあなたを愛し、あなたとともにあることを約束し、私の全てを捧げることを誓います」 
 蘭は迷いなき気持ちで愛を誓い、雪の嬉しそうにほころぶ顔を見つめる。
 優しく揺らめく瞳に吸い込まれて、蘭と雪はもう一度キスを交わした。
 神父もいないたった二人きりの結婚式――
 それでもそんなことはどうでも良かった。
 幸せで心の中は満たされていく。
 雪の背中に手を回して、ぎゅっと掴んだ。
 ――もう、絶対に離さない。
 死が二人を分かつまで、そう誓いあったのだから。
 雪もそれに応えるように、蘭の全てを奪うようにかき抱いてくれた。
 その一瞬は永遠のように長く感じられ、二人は自分達だけの世界に身を投じる。
 抱き締められた腕から暖かさを感じ、蘭は雪の胸に顔を埋めて幸せに浸る。
 ――このまま一つになれたらいいのに。
 そのくらい雪を愛し、欲し、離れることなど考えられない。
 言葉なくとも、蘭は十分に愛されていることを知って、涙を流す。
 嬉しくて感激の涙は熱く頬を滑り落ちていった。
 ようやく蘭の背中に回された力が緩み、雪の熱が体から離れていく。
 雪は恥ずかしいのか、少年のように頬を染めて、蘭の左手を軽く持ち上げた。
 蘭の視線は薬指に落ち、指輪がそこに嵌められるのを待ち詫びた。
 雪が指輪を差しこもうとした瞬間――それは、無情にも阻まれた。
 指輪はひょいっと雪の手から呆気なく奪われ、薄闇の中に浮く。
 蘭は視線を上げて、指輪の行方を追った。
「――ごめんね、雪。これは僕にちょうだい」
 悪びれずに言うともの手の中にしっかりと掴まれた覇王の記。
 ――え、とも君?
 蘭の薬指には戻らずに、ともによって奪われた。
 蘭はなにが起きたか分からず、その場に立ち尽くしていた。
 雪が一瞬で身を翻しともに向かうのが見える。
 だが、ともはパチンと指を鳴らして、すぐに手を打った。
 いつの間にか、本殿には男達が囲み、雪をあっさりと床に伏せさせる。
「ぐっ、とも、お前っ!」
 怪我をして傷ついた雪では、いつもの動きが出来るはずもない。
「覇王!」
 公人と典子もすぐに動くが、多勢に無勢では結果に目に見えていた。
 取り囲まれて、蘭達は為す術をなくす。
「雪のことは殺したくない。これでも、好きなんだよ。この事態を丸く治めるには、覇王の称号をこの僕に譲るってこと。雪だってこんな風に狙われるの疲れたでしょ。引退してのんびりしなよ」
 ともは、覇王の記の指輪を小指に嵌めて、床に膝つく雪を見下ろした。
 月の光がともの顔を照らし出し、その妖艶な笑みを張りつかせる。
 その表情を見て、蘭はぞっと全身の肌が粟立った。
 まるであの夜を思い起こさせるともの狂気を孕んだ瞳。
 ――蜘蛛の巣。これは蜘蛛の巣なんだ、張られた罠に絡め取られてしまった
 蘭は愕然とし、よろりと態勢を崩した。
――とも君は……やっぱり……変わってなどいない
 そう悟ったが時はすでに遅し。
「あ〜もう。手の込んだことして疲れたよ。伊達を騙し、そして雪を騙して。二重の罠を巡らせていたんだ」
 ともはやれやれと柔らかい髪を撫で上げ、一つ伸びをした。
 「お前……俺を助ける振りをして、覇王の記を狙っていたのか。どうして急に天下が欲しくなった?」
 雪はともに裏切られたと知り、微かに体を震わせていた。
 ともの顔から笑顔が消えて、変わりに苦しげに瞳が揺らぐ。
「――全部、雪が奪っていっちゃうから」
 ともが悲しげに発した言葉に雪も蘭も顔をしかめる。
「雪はいっつも僕の先を行ってて、全てを手に入れる。天下だって、国民からの信頼だって、それに蘭おねーさんだって!」
 ともの悲痛な叫びにはっと蘭は目を瞠る。
 全身を震わせ、悔しそうに顔を歪めているともは、どこか悲しげで。
 怪我をした雪より傷ついているように見えた。
「とも……お前……」
 雪は床に膝をついた状態で、静かに顔をあげる。
 そこにはともに対する怒りも、失望の色も消えていた。
「そうだよっ! 僕だって、ずっと蘭おねーさんが好きだったんだ。学園で初めて会ったあの日から。たったの十五歳だった僕はまだ甘えん坊で、力もなくて、いつも雪と秀樹に守ってもらっていた……でも、もう子供の時期は終わったんだ」
 最後は力を失くしたようにともは視線を落とす。
 月に照らされて、ともの影が床に色濃く伸びていた。
「……僕は徳川の当主になる。それは、僕の力で導く。雪にも秀樹にも庇護されたくないんだ。だから、この計画を考えた。両親が事故に遭って、全部が僕の肩にかかっているんだよ」
 苦しげに揺らいでいたまつ毛を上げて、ともはそう言い切った。
「伊達を取りこみ、蘭おねーさんを拉致するのも僕の計画だよ。時間をかけて、警護の薄くなった時を狙った……蘭おねーさん、ごめんね。あのタイヤに細工をしてパンクさせたのは、僕の家の者なんだ」
 ともが謝罪してくるが、蘭はなぜか憎いとは思えなかった。
「でも、雪を殺したくないから早めの脱出を試みたんだ。だから、お願いだ、雪。僕に覇王の称号を譲って」
 月に雲がかかり、本殿にいるともと雪の間に濃い影を落とした。
 暗闇の中でも、二人は視線を交わして、目だけで会話をしてい
 るようだった。
 静謐(せいひつ)な時の中で、悲しげに心で語り合う雪ととも。
 蘭は二人の間に入ることは出来ずに、ただその様子を見守るしかなかった。
――雪……とも君……
 静かな、とても静かな時間が数秒流れる。
 力を持つ者は、それゆえに誰よりも孤独なのかも知れない。
 たったあの小さな指輪の為に、全てを懸けて男達は生きざまを見せつける。
 天下を執り、そこから見える景色はどんなのものだろうか。
 想像も出来ずに蘭は、ただ悲しき運命を背負った男達を見つめた。
 幼馴染であり、友達であり、同じ立場であり、信頼出来る間であり、そして、最大のライバルであり。
 心の丈を叫んで、優色(ゆうしょく)を浮かべているともの心はもう決まっているようだ。
 傷つき、心を痛めているともは、どこかもろい強さを兼ねそなえていた。
「とも……俺と力を合わせて国を治めないか」
 静寂を打ち破り、先に言葉を発したのは雪の方。
 驚きの表情を浮かべたのはともだった。
 信じられないといった顔で、床に膝ついたままの雪を見下ろす。
「なに言ってんの、僕は雪を裏切ったんだよっ! 蘭おねーさんだって、欲しい! 全部を奪いたいんだっ! それを許すっていうの?」
 語気は荒いが、ともの声は微かに震えていた。
 雪が裏切った自分を許すという意味を含めた言葉に驚愕を刻んでいる。
「ああ、お前は俺の大事な友達だろ」
 雪の強い瞳がともを捉えて、全てを許すという。
 その真っ直ぐな心根と器の大きさは、ともの胸を打った。
「雪……」
 ともは言葉に詰まり、雪の名前をたった一言だけ呟く。
「とも……俺を信じろ。お前を子供扱いなんて二度としない」






 





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