河畔に咲く鮮花  




 ――本玉寺(ほんぎょくじ)――


 洋館から命からがら逃げて来た蘭達はともの背中を追った。
 夜が深まる中、蘭達は満身創痍でともの家の傘下の本玉寺へと駆け込んでいた。
 誰もいない本殿には、この寺の崇拝する不動明王の仏像が暗闇の中で浮かび上がっていた。
「僕は自分のところの兵隊と秀樹に電話して来るから、雪達は少しでもいいから休んでて」
 ともはそれだけを言い残し、さっさと本殿を去って行く。
 雪は苦しそうに胸を押さえては、その場に身を崩した。
「雪っ、大丈夫? 床は冷えるから私の膝に頭を預けて」
 どっと雪が蘭の膝の上に崩れ込み、荒い息を吐きだした。
 公人と典子は気を利かせて、隅で待機をする。
 しんと静まり返ったお寺の中は、夏の調べの虫の音だけが優しく響いていた。
 夏真っ盛りだというのに、夜気は冷たく蘭の肌をひりつかせる。
 本殿から外をちらりと見やるが、風は吹いていない。
 朧に浮かぶ月に半分ほどかかった雲は、先ほどから動く気配はなかった。
 それは寒さではなく、不安という恐怖のせいだと気づく。
「……そんな、顔をするな。俺達は無事に出会えた」
 蘭の落ち込んだ顔を見て、雪は手を伸ばしてきた。
 傷だらけの雪の手を握り締めて蘭は自分の頬に当てる。
 雪の指先がさらりと蘭の頬を愛しく撫でて、緩やかに微笑みを漏らした。
 こんな時でも雪は気丈に振る舞い、覇王として弱音を吐かない。
 その並はずれた強い精神に蘭は敬服すら覚える。
 だが逆に少しでもいい――頼っても欲しいとどこかでは願った。
 そんなことを思っていても、雪が愚痴や弱音を吐露することはない。
 覇王としての役目をしっかり胸に刻んで、雪は雄々しく強く前に向かうだけだ。
 その逞しさに蘭は心を打ち、支えになろうと決意を固めさせる。
 「ねぇ……雪。どうして助けに来たの?」
 蘭は汗ではりついた雪の髪を頬から静かに払ってそう問いかける。
 来る必要のない雪が単身で乗り込んで、自らの身を危険に晒す。
 覇王なのに、この人は相変わらずむちゃくちゃだ。
 雪は呆れたような顔をして、力強く言い放った。
「馬鹿か。お前を愛してからに決まっているだろ。その為には俺の命なんてこれっぽっちも惜しくねぇよ」
 蘭はあっさりとそう返されて、ぐっと胸が詰まった。
 雪の背中にはどのくらいの重みと責任があるのかは知らない。
 それでも覇王というのはそれを全て背負い、民衆を導かなければならないのだ。
 それをたった一人の女の為に、命も捨てると言う。
 ――馬鹿は、あなたよ、雪。
 そう言いたいが、雪は言ったことを一つも後悔していないようだった。 
「惚れた女、一人守れないでなにが覇王だ」
 雪の言葉にはっと蘭は我に戻る。蘭はまた雪をみくびっていたようだ。
 雪は、自分が覇王だということを痛いほど分かっている。
 それを全て全身に受けて、その言葉を躊躇うことなく言ってのけたのだ。
「愛した妻を見殺しにするような男は、国の一つも救えねぇよ」
 雪の真っ直ぐな目に蘭は、ああっと歓喜に打ち震えた。
 雪は蘭を犠牲にするくらいなら、国を統治する指導者になれない、そこまで思ってくれていた。
 そう、雪はこういう人なのだ。
 その固いくらい強い信念に心は揺さぶられ、じわりと涙が浮かびあがる。
――雪、見誤っていたのは私だった。これからどんなことがあっても、この人の支えになり、ついて行こう。そして、同じように雪が危機にあえば、この命を投げ打ってもこの人を助けよう。  
 蘭は何度も雪に助けられたことを思い出し、愛しく頬を撫でた。
「もう、二度と離れたくないよ、雪」
 雪の手が蘭の頭の後ろに回り、ゆっくりと引き寄せられる。
「俺もだ、蘭。もう、傍から離れるな」
 そう言って雪は宝石のような夜露に濡れた瞳を潤ませた。
 深い瞳を見つめながら、蘭はゆっくりと雪に自分の唇を重ねる。
 激しく獣のようなキスではなく、甘く切ないお互いを思いやるキス――
 雪の熱が離れて、二人は静かに見つめ合う。
「何度でも言う。お前以上に愛する女はいない」
 雪が優しい声音で囁き、再び頭は引き寄せられた。先程より深いキスを重ねて蘭も雪に応える。
「私もよ、雪。この愛はなによりも深い」
 蘭が微笑むと、雪は照れ臭そうに笑った。その仕草が愛しくて可愛い。
 雪は蘭と手を絡め合って、愛を確認しあった。心がほだされて、暖かい気持ちが流れ込んでくる。
 手の先から想いが伝わり、二人は欠けられない存在だと再認識した。
 敵が多くても、雪がいればその全てを打ち砕ける。
 雪さえこの世界にいてくれれば、どんなに苦しくても生きていける。 
 二人が支え合い、身を寄せ合い、助けあい、愛し合い、力を合わせたのなら、困難な状況でも立ち向かっていける。
 もう、誰の手にも堕ちたくはない。この掴まれた手を二度と放したくはなかった。
 ぎゅっと力強く手は握られ、雪も決して放すまいとしていた。
「ふふっ、雪。そんなに掴んだら痛いよ」 
 蘭の笑う声に雪は我に戻ると絡めた指を解いた。
「そうだ、これを返す」
 雪は思い出したようにごぞごぞと靴の中から、何かを取り出した。
 薄暗い闇の中でもそれは、生命を放つように眩しい輝きを放つ。
「これは……覇王の記……」
 唖然としている蘭の膝から雪はよろりと起き上り、真っ直ぐに見つめてきた。
「そう言えばまともにしてなかったな。今、やるか」
 雪はぽつりと呟いて、蘭の手を再び取った。
 「えっ、やるって、なにを?」
 蘭は雪がなにをするつもりか分からずに、目をぱちくりと瞬かせた。
「きちんとした結婚の誓い」
 雪は少しだけ微笑み、蘭の左手の薬指をなぞる。
「えっ、誓いって?」
「まぁ、黙って聞いてろ」
 雪はおもしろそうに笑むと、蘭を黙らせた。
 乱れた髪をばさりと雪は撫で上げて、真剣な表情を作る。
 そして、深呼吸を一つ大きくして、言葉を紡ぎ始めた。
「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓います」
 蘭は羅列される言葉を聞き取りながら、目を丸くした。
――これって……結婚式の誓いの言葉
 それが分かり蘭は真面目に誓いを言葉を述べる雪の顔を見つめる。
 呆然としている蘭に雪はこほんと咳払いをして、からかい調子で笑う。
「意味が分かんねーって顔するな。もっと蘭にも分かりやすく砕けた言い方してやる」
 雪は誓いの言葉の内容が分からないと思ったのか再び声を張り上げた。
「新郎、織田信雪は新婦、蘭となるあなたを妻とし、良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも――死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います」   
 雪に掴まれた左手が小刻みに震え、胸の中は歓喜に打ち震える。
 信じられないほど嬉しくて、幸せで、ただただ感激して、自然に涙が溢れてきた。
「おい、蘭。誰が泣けって言った? 誓いますと言え」
 雪は蘭が応えずに泣いているのを見て横柄な態度を取ってくる。
 こんなに幸せなことがあるだろうか。





 





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