河畔に咲く鮮花  




  少女は悲しみを取り除いてくれているようであったが、母にもこんなことはされたことがない。
「蘭って名前なの」
――蘭……綺麗な花の名前だ
 義鷹は花と同じ名の少女に一瞬で惹かれてしまう。
 夕日の中で微笑む蘭をこの腕に抱いて、初めてのキスを交わした。
――なんて、甘い口づけなのだ
 少女の唇は柔らかく暖かく、なによりも芳しい。
 キスを知る度に、義鷹の心の中に鮮やかな花が咲いていった。
――美しく穢れのない蘭
 義鷹の素性も知らない蘭に初めて心の内をさらけ出す。
 自分がこれまで貯め込んでいたやるせない思いや、苦しみ。
 蘭はその一つ一つに頷き、小さいながらも理解しようとしてくれていた。
――私の味方はこの小さき姫だけとは……
 それでも義鷹は親身になってくれる蘭の存在がたまらなく嬉しかった。
 初めての恋に落ちて、下慮と貴族という垣根を乗り越え、義鷹は毎日、夕日の沈む時間に蘭と逢瀬を楽しんだ。
――蘭、また明日会おう……
 蘭が帰る背中を見送りながら、義鷹は最後まで沈む夕日を見つめる。
 沈み切った後にようやく腰を上げて、あの忌まわしい蛇のような女が巣くう屋敷へ戻る。
 これが毎日の日課であった。
 そんなある日のこと、いつもの通りに蘭が帰り余韻に浸っていた頃、あの男から声をかけられた。
『はじめまして、今川の坊ちゃん』
 義鷹でも見惚れるほどの艶やかで麗しい男。
 その時は二十二歳と義鷹より六歳も上の、明智光明は毒を含んだ笑みで囁いてきた。
『俺は下虜の明智光明、蘭のお兄さん的存在だ』
――このような艶やかな男は貴族でも見たことがない
 少年だった義鷹はその毒に侵され、その存在感に圧倒される。
――まるで覇者のようだ……この男……
 下慮なのに、覇者と変わらぬオーラを放ち、義鷹の弱った心につけ入って来た。
 いいことを教えてやろう――そう光明は密やかに笑う。
 なぜ、お前の家が織田から庇護を受けているのか。
 お前の側室は、織田の愛人の一人だからだ。
『なぜ、知っているかって?』
――簡単だ、お前の家にいるあのあばずれ女は、俺にも抱かれてぽろっとその真実を自慢げにこぼしたからだ。
 義鷹はその真実を聞き、ようやく側室の正体を知る。
 あの蛇のような女は、元は一般市民階級の出だ。
 その類まれなる美貌と、男を操る口調で色んな奴に巣食い、廃人にしてきた。
 その性質を知った織田は側室に迎え入れることはしなかったが、あの女はちゃっかり庇護を貰い、今川家に入り込んだ。
『分かったか? あの女は全てを蝕み、お前を追い出し、今川家を手に入れようとしている』
 光明に新たな真実を突きつけられて、義鷹の心臓は凍りつく。
 今川家が織田から庇護をされていたのは、あの憎き側室のせい。
 父もその事実を知り、側室を邪険に出来なかったのだろう。
 何らかで揺さぶり、本家で一緒に肩を並べて夕食を摂ることを強要した。
 そして、隙を見て義鷹を暗殺するという計画に出た。
――なんて、女だ 
 父が病気に伏せっているのも、もしかしたら側室のせいかもしれない。
 医者と共謀して、少量づつ薬に毒を混ぜているのかも。
――あの女ならやりかねない
 義鷹は悔しさからぎゅっと拳を握り締めた。
『悔しいか? ならば俺を信じろ。全てを一掃し、新たな時代を俺が作ってやる』
 そう言った光明は自信に満ち、信じさせるような強い意志を持っていた。
――この男が変えてくれる?
 義鷹にはまだ力がない為にその言葉はゆっくりと心に染み込んでくる。
『そうすれば、お前の愛しい蘭は身売りせずにすむ。そして、永遠に手に入れることも』
 その囁きは甘く毒を含む。
――蘭をこの手に……
 蘭を永遠に手に入れられる――そう思うと義鷹の心に、鮮やかな花が咲きはじめた。
――灰色の世界に色をつけてくれる蘭
 目を灼くほどの夕陽(せきよう)の中に蘭の姿を思い描いて、光明の言葉に耳を貸してしまった。
「私は……なにをすれば……」
 光明からすれば義鷹などほんの少年。
 光明からすれば育ちの良い、憎しみも知らない子供をその手で操ることは造作もないことだろう。
 そんな思惑も分からず、少年の義鷹は圧倒的オーラを放つ光明に加担してしまう。
――この男なら本当に変えてくれるかもしれない
 心酔にも似た気持ちで、義鷹は蘭の為に持ちかけられた計画に耳を傾けた。
『では、よく聞け』
 光明は極上の笑みを浮かべ、一つ一つ丁寧に話をし始める。
 織田家の庇護を受けていた今川家は、跡取りの雪の世話をその頃からしていた。
 雪はまだ子供で無邪気であった。だが、感情には敏感で同時に早熟でもあった。
 雪は取り入ろうとする側室にはなじまず、ステータスだけでちやほやしてくるメイド達にもいたずらを仕掛けては、勝手に今川家から追い出した。
 その雪も大きくなれば、必ず嫁を娶るだろう。
 その相手を蘭にさせる――と光明は残酷にも言い放った。
 蘭の家は元々、織田家に仕えていた貴族の家柄だそうだ。
 その頃は、森下ではなく、『森家』であった。
 昔から織田家は森家の者を傍に置き、周りの世話をさせ、政にも参加させるという信頼を置いていた。
 そんな良好な関係を保っていたが、ある時、森家に女が産まれた。
 森家は代々男ばかりであったが、その子はとても綺麗で可憐で織田の当主は一目見て心を奪われた。
 だが、森家の娘は他に愛した男が居る為に、織田家の当主の婚姻を破棄したのだ。
 それを怒り、織田家は森家を貴族界から称号をはく奪して、下慮にまでおとしめた。
 泣いて、許しを乞うなら貴族に戻そうと考えていたが、誇り高い森家は下慮という立場を受け入れたのだ。
 そこから森家は下慮として、ひっそり暮らすことになり、名前を森下と改めた。
 時は過ぎて、織田家との繋がりも消え、蘭はずっとその昔は自分が貴族の身分だったということすら知らない。
 そこまで話して光明は笑った。
『織田家と蘭の家はそういう繋がりが昔からある。今の当主や、次の当主の信雪は知らない事実だろうが、きっと蘭を一目見て気に入るはずだ』
 義鷹はそれを聞いて唖然とする。
――あの蘭が、その昔は貴族の娘……
 そして織田家と森家の関係。
――昔から切っても切れない縁を持つ……雪様と……蘭……
 成長した雪が、美しくなった蘭を見て、一目で恋に落ちる。
 それが義鷹の頭の中に思い浮かんで、愕然とした。
 ――それでは、蘭が私の手の中に入らぬではないか 
 煮えたぎる想いを察したのか、光明は続きを促す。
『それも覇王の記を受け取るまでだ。知っているんだろ? 俺は色んなパイプがあって、その情報を掴んでいる。蘭を結婚相手に持ちあげ、それを手に入れる。その間だけ、覇王に蘭を貸してやっていると思えばいい』
 なんとこの男は残酷なことを言うのか。だが、その計画に乗るも反るも義鷹次第だった。義鷹は時間が欲しいと断って、その計画に加担するか考える日々を送る。
 だが蘭に会う度に、このままではいけないという衝動に駆られた。
 燃える夕日の中、蘭は斜陽を浴びて美しく微笑む。
 その微笑みはたまに翳り、いつ身売りに行かなければならないかもと、悲しく呟く。
――蘭に身売りなどさせたくない
 それを痛ましく思い、義鷹は決心をする。
 光明の言う通り、雪は必ず蘭に恋をするだろう。
 傍若無人で誰の言うことも聞かない、はちゃめちゃな雪は下慮であろうが、蘭を嫁に娶る。
 そして蘭は覇王の記という権力を受け取る。
――それまでの辛抱だ、そこまで我慢をすれば蘭を雪から離して自分の腕に抱く。
 蘭が雪を愛したとしても関係はない。
 雪より長い時間をかけて、蘭の気持ちを振り向かせよう。
 あの、蘭の笑顔を手に入れられるならなにも怖くはない。
――全てを手に入れる為に……私は……
 義鷹は覚悟を決めて、光明に計画に乗ることを伝える。
 光明はまた艶やかに笑んでは、義鷹のバックアップをしてもらえるように、知り合いの覇者の娘を紹介しようと言う。
『もちろん、粗相のないようにな。たっぷり、楽しませるんだ』
――そんな……そのようなことを……
 その言葉には、裏では権力者の女を抱いて翻弄させろとの意味を含んでいた。
 義鷹の心は急速に冷えていき、絶望する。
 蘭を抱きたいのに、それができない。
――蘭……私が切望するのはお前だけなのに
 だが蘭をこの手にして、抱く為に布石を打っておかねばならない。
 心は吹きすさぶが、力のない義鷹には方法がなかった。
 悪魔のように囁く光明の声に耳を貸してしまい、義鷹は修羅の一歩を踏み出す。
 『ふふふ、では覇者の娘を用意してやろう』
 好きでもない権力者の女をそこから、義鷹は飽きるほど用意されては抱いた。
 屋敷に招き入れ、喜ばせる為に色んなことをやってきた。
――ようやくあの蛇のような女を家から追い出せる
 覇者の娘達を味方につけて、屋敷にはびこる側室の付き人や護衛達も排除していった。
 どんどんとパイプを繋ぎ、商人達から巻きあげた金で織田の顔を窺い、義鷹は自分の地位を築き始めた。
――そうだ、こうやって自分で権力を手にするのだ
 裏切り、欺き、見下し、蔑み、そうやって義鷹は権力を手にし、側室と息子も追い出し、二度と今川家の敷居をまたがせることはなかった。
――もう、心は冷えてしまった。それでも……私は足を止めることは出来ない
 義鷹の忠誠は確固たるもので、その働きに豊臣が庇護すると名乗りをあげてくれる。
 今川家は八年で貴族のトップに成り上がり、義鷹は当主として君臨した。
 その間は長くて遠い――血を吐くほどの道のりだった。
 苦しくて、何度も挫折しそうになった。
 もう不必要な女を抱く必要もない。
――ようやくここまで来たのだ。あれから八年も……
 夕日の中に浮かぶ蘭の笑顔を思い出しただけで、頑張ろうと気を奮わせた。
――もうすぐ、もうすぐだ
 この計画が実を結び、ようやく蘭をこの手に出来る。
 あの日、約束したように蘭を迎えに行く。
 この錆びついた世界に咲く、たった一輪の鮮やかな花――
 閉じた瞼の裏に成長した蘭を思い浮かべ、泣きたいほど切ない思いに駆られた。
――ようやくお前を迎えに行けるよ 
 それだけの為に、義鷹はこの八年を生きて来た。
 私を覚えていてくれるだろうか。
 きっと見ても、分かりはしない。
 少年から青年に成長し、身長も伸び、声もあの頃より低くなった。
 華奢な体も、鍛えた武術のおかげで逞しくもなっている。
 義鷹はふっと笑み、それでもいつかは気づいてくれたら――
 義鷹はわざと蘭の家への仕事をカットするよう、裏で糸を引いていた。
 そうすれば家族を助ける為に、蘭は身売りをせざる終えないだろう。
 だが、義鷹が買ってしまうより、助けるという劇的な場面を作り上げた方が、蘭は慕ってくれるはずだ。
 それもすべて義鷹が考えた計画の一部であった。
――私は最低だな、蘭
 あれから時が経ち、蘭はきっと驚くほど美しく成長しただろう。
――あれから八年……蘭は十八歳か……
 それを思うとすぐにでも飛んでいき、この腕に抱きしめたい。  
 それだけを思って、義鷹は光明から連絡を貰い、蘭を買った商売人が集う料亭に足を運ぶのであった。
――会えると思えば胸が震える
 義鷹は自分に対して嘲る笑いを漏らした。
 腐るほど女を抱いたというのに、蘭をこの手に出来ると思うとじわりと汗が滲んでくるのだ。
――まるで子供だ
 貴族のトップの若様が下虜に恋をしているなど笑い草であろう。
――それでもいい、誰に笑われようと誹られようとも
 その足取りはいつもの優雅さではなく、まるで少年のように浮き足だって。
 会いたい、早く――
 そして、この曇りきった目を眩しく輝かせて欲しい。
 そんな気持ちを抱いて、義鷹は忘れもしない心に咲いたたった一輪の鮮やかな花を探しに向かったのだ。
  



 特別編:義鷹に咲く鮮やかな花《義鷹視点》 終







 





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