河畔に咲く鮮花  



 * * *


 義鷹が気がついた時には雪の姿は見えなかった。
 王位返還状もその場に散らばったままで、持ち逃げされた様子はない。
――雪様……行ってしまわれたか
 のろりと立ち上がり、義鷹は大事そうに返還状を胸に抱いた。
 この返還状こそ最後の切り札だ。
 そう心の中で呟いて、義鷹はまだ痛みが残る首元をさする。
「逃げられたのか?」
 暗がりに冷えた声が降って来て、思わず義鷹は機敏な仕草で振り向いた。
 石灯篭の仄かな火が揺らめき、その毒を含む艶やかな男が庭に佇んでいる。
――光明さん……いつの間に……見られたのか?
 いつからそこに居たのか気配を感じなかった。
「どうした、そんなに強ばって」
 光明がにやりと笑い、ゆっくりと義鷹に近づいてくる。
――何も聞いて来ない……
 返還状のことをなにも言わないのは、さきほどここに来たばかりなのであろう。
「いいえ、いきなり来られたので少し驚いただけです」
 義鷹はほっと胸を撫で下ろし、明智光明を見つめる。
――良かった、知られていない
 光明は返還状のことを知らない。
 それは義鷹の切り札であるから、誰にも知られたくない事実であった。
「雪様は伊達の元へ行かれました」
 そう言っても光明は驚きさえもしない。それもそうかと義鷹はふっと笑みを漏らした。
 伊達が動くことは光明に通じているスパイからとっくに耳に入っていたのだから。 
「発信機を取り付けていますから、どこに行っても行動は筒抜けです。すぐに居場所を特定できます」
 雪につけた発信機を思い出し、義鷹はそう光明を安心させた。
 今の雪では発信機を取り付けられたことも忘れているだろう。
 義鷹の裏切りを知り、頭に血が昇っているはずだ。
 時間がないせいで、蘭を助けに行くことだけを考えている。
 その真っ直ぐで、覇王らしからぬ性格は義鷹に取って手に取るほど読みやすいものだった。
 それでも義鷹の胸は絞られるように痛む。
 裏切りを知った時、雪の顔が悲しげに歪んだのを見て気持ちが揺らいだのだ。
――雪様……私に失望しただろう
 野心の為とはいえ、幼い頃から見守っていた雪を裏切ってしまった。
 心はすでに鬼になっていたと思ったが、雪を嫌いになれないのも本心だった。
――そうなのだ、どうやっても私は雪様を嫌いになれない
 雪の呆れるほどの真っ直ぐさは、歪みきった人生を歩んだ義鷹にとっては憎々しい反面、羨ましいものでもあった。
「くくく、みんな一斉に本家を出払って、隙だらけだな」
 喉を鳴らして笑う光明の姿は、この暗がりの中でもひと際怪しくそれが一層艶やかに見えた。
「なにをお考えなのですか?」
 すでにこの男は全貌を見据え、裏で秘密裏に動いている。
――その余裕の笑みはなんだ?
 それを感じ取った義鷹はいい知れぬ不安を抱いて、返還状の存在を悟られないように胸の前でぎゅっと抱いた。
 光明に聞いてもいつも上手くはぐらかされる。
 義鷹は結局、光明に上手く利用されているだけだと分かっていた。
「すぐに分かることだ。とにかく、邪魔な者は全て消す」
 光明の明け透けに欲望をぶつけてくる言葉には一切の迷いはない。
 その屈託ない様子を見て震撼する。
――ああ、やはりこの男を信じるべきではなかった。
 まるで義鷹の心の迷いを現したかの如く、不安げにいつまでも石灯篭の火はゆらゆらと揺らいでいた。







 





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