河畔に咲く鮮花  



 義鷹の視線が絡んできて、雪はゆっくりと口を開いた。
「……王位返還状……」
 雪が呆然としながら読み上げた言葉を聞き取り、義鷹は満足そうに微笑んだ。
「やはり、知っておいででしたか。雪様も人がお悪い。必死で隠してきたおつもりでしょうが、私は独自のルートでこの書面を探し求めて、ようやく手に入れました」
 義鷹はあるページを手繰り、王位返還のサインを見せる。
「ほら、ここにその昔、王位返還をした法皇のサインがあるでしょう。実は一度だけ王位は覇者ではなく、法皇が世を治めていたのです。その事実は掻き消され、ずっと覇者が天下を執っていたと思われていた」    
 義鷹に事実を突きつけられても雪は何も言葉を発さない。
――なんで、こいつそんなことを
 その事実は一部しか知らないはずなのに、義鷹は突き止めているのだという。
 雪はごくりと唾を飲み込み、書面に視線を縫い付けたまま法皇のサインを見た。
「雪様……何もおっしゃってくださらないということは、これが本物ということですね」
 黙り込む雪を見かねて義鷹は続きを聞かせた。
「覇者はこのような事実が世に知られてはならないと、この書面状を闇に葬りました。だが、私はあるルートから手に入れることができました。愚かですね、本当に葬るなら跡かたもなく燃やせばいいものを」
 義鷹は少し笑みを浮かべ、ぱらぱらと書面状をめくる。 
「法皇は王位を覇者へ譲り、その証拠として覇王の記を与えました」
――そうだ、俺もそう聞いている
 今持っている覇王の記と現覇王のサインさえあれば事実上、王位を返還出来ることになる。
 義鷹の手に入れた王位返還上にサインをすれば雪は失脚してしまうのだ。
――なんて、タイミングの悪さだ 
 わざわざ雪は覇王の記を義鷹の元へ持ってきてしまったというわけだ。
――こいつ、ここまで計算していたのか?
 まさかと雪は思うが、義鷹ならやりかねない。 
 義鷹は冷たい瞳のまま、雪の前にばさりと王位返還状を放り投げた。
「お前……なにが……したい……それを使って……俺に王位返還させて、貴族のお前が……今度はこの世を制したいのか……」
 雪の考えを聞いて義鷹は明らかに落胆の色を浮かべる。
「いい考えですが、少しだけ違います。私には天下を執るなどどうでもいいことです」
 義鷹はつまらなさそうに呟くと、雪をゆっくりと見下ろす。
「……ですが、雪様にはそれにサインをして欲しいのです。そして、覇王の記の指輪も一緒にここに残していただきたい」
 ――天下も欲しくないのに、失脚だけを狙っているだと? 何を考えているんだ、義鷹
 義鷹の真意が見えずに雪は顔をしかめる。
 痺れで自由が利かない体をゆすりながら、それでも強い眼光で睨み据えた。
「そんな暇はねぇ……俺は蘭を助けに……行く……」
「私が蘭を助けましょう。もう、あなたの役目は終えた。覇王の記を私の元へ運んで来てくれた今を持って、蘭を返していただきたいのです」
 義鷹の言葉に雪は驚愕する。
――なにを言っている? 蘭を返して欲しいだと?
 麻痺した脳の中で、色んな疑問が駆け巡っていく。
「お前……どういうことだ……」
 雪は考えるより先に義鷹にそう問うていた。
「気づかなかったのですか?」
 義鷹が嘲笑うような微笑みを漏らし、潤みを帯びた瞳で雪を捉える。
「私は蘭を愛しています。それもずっと前から。蘭はあなたに少しの間、貸していただけです」
「なにを……言っている……? 蘭は俺の嫁だ」
義鷹の言わんとすることが分からずに雪はますます混乱する。
「そういう風に仕向けたのです。あなたとの付き合いは長い。蘭を一目見て、恋に落ち、本気になることは百も承知でした。いずれあなたも嫁を取り覇王の記を与える。その役割を知らずに蘭は私にさせられていたのですよ」
 義鷹の計画を知り、雪は茫然とした。
――蘭を利用しただと?
 怒りが増し、息が荒くなる。それでも義鷹は平然と言ってのけた。
「全てを利用したのです。伊達がいつかは動く。私はそれをずっと待ち続け、最大のチャンスを手にすることを」
「俺を裏切り、愛した女も利用するのか……義鷹っ!」
 雪は憤怒して蘭を堂々と欺き、利用した義鷹に怒鳴った。
 義鷹は怒りを向けられても表情を崩すことはない。
「はい、そうです。全ては私の駒にしか過ぎない」
 義鷹が裏切ったということを悪びれもなく述べた。
――お前はこんな時でも冷静なんだな
 雪の中に悔しさと悲しさが広がっていく。
 長年、仕えていてくれた義鷹がそのような野望を心に秘めていたとは知りもしなかった。
 疑うこともなくずっと信じていた味方。
 兄のように見守ってくれた義鷹が、今は知らない人間のように見える。
「私の愛は歪んでいるのでしょう。それでも先にある未来を思えば、この一瞬はたやすいことです。蘭はもうすぐ、ずっと私の腕の中に戻る」
 蘭が自分の手の中に戻ることを確信している義鷹に雪はゆっくりと首を振る。
「蘭の……意思は……そこには……ないのか。俺を捨て、お前に返るとでも……?」
「はい、思います。あなたといるより私といた方が安全で、今のように命を狙われることもないでしょう」
 義鷹はあっさりとそう言い放ち、蘭が自分の腕に戻ってくることに確信を抱いているようであった。
「王位返還状に同意をいただければ織田は失脚、いや、覇者の時代は終わりを告げます。領土も取られ、兵隊もなくし、傍若無人なだけのあなたについて行く者はいないでしょう」
 義鷹が聞かせる未来はまるで夢物語のようで、雪にはいまいち理解できないものだった。
――覇者の世界が終わるだと? そんなことは……有り得ない
 それでも義鷹はそういう未来を信じて――いや心より願っているようだった。
「……それに私は雪様より、蘭のことは良く知っているつもりです。何十年も見守っていたのですから」
 義鷹は一瞬だけ顔に翳りを落とし、胸の前で拳を握り締めた。
――何十年? なにを言っているんだ、義鷹
 雪の記憶では二年前に義鷹が蘭を料亭で助け、自分の屋敷に囲ったはずだ。
 たった二年のことだというのに、義鷹は何十年という言い方をする。
――お前は何をずっと胸の内に秘めていたんだ
 初めて見せる苦しげな表情の義鷹は何かとずっと戦っているようで。
 雪と初めて会った時の義鷹は、まだ年端も行かない少年で儚げで頼りなげであった。
 十歳程度の雪にも振り回されていた義鷹は、文句の一つも言わずにわがままに付き合ってくれていた。
 兄のような義鷹が広大な屋敷で一人ぼっちということに気がついた雪は、敵になりうる者を全て排除していった。
 さすがに一癖も二癖もある側室までは追い出せなかったが、雪は義鷹に恩返しをしていたのだ。
 義鷹には雪のいつものわがままで、追い出しているのだと思われていたはずだが。
 そんな純真だといつかは足元を掬われると雪は心配していたのだが。
――そうか、義鷹……あの側室はお前の手で追い出したんだな
 雪は義鷹の歩んできた地獄のような道を思い浮かべた。
 あの側室を追い出すにはあの頃の義鷹では無理なはずだ。
――それでもお前は、俺の知らないところで……手を汚していたのか
 義鷹は母親が亡くなった後から変わってしまったことを悟る。
 雪の前では変わりなく接していたのは、心を隠していたからだと気がついた。
 貴族特有の微笑みや振る舞いは表面的なもので、それを見破れなかった。
――あの時からずっと……俺を……覇者を憎んでいたのか……義鷹……
 初めて見せる義鷹の冷血な態度が真実だとありありと物語っていた。
「雪様、あなたは周りを不幸にする。ただ無駄に命の危険にみんなをさらしている。そんな力だけの覇者の時代を打ち砕きたいのですよ」
 義鷹はずいっと王位返還状を雪の目の前に突きつけた。
「これにサインを。そして指輪も置いて下さい」
 義鷹の瞳は真剣そのもので、有無も言わさせない気迫が雪を捉える。
――義鷹……本気なんだな
だが雪はここで屈するわけにはいかない。ぐっと拳を握り締めて頑なに拒否の意を誇示する。
「俺はサインはしねぇ」
 雪の強い意思をぶつけられても義鷹は怜悧な表情を崩すことはない。
「ああ、ペンがありませんでした。今、持ってきます」
 そんな雪の様子も介することなく義鷹はふらりとこんな時でも優雅に歩いて行く。
 去って行く義鷹の背中を見送り考えようとするが、麻痺した脳では上手く整理が出来ない。
――義鷹が裏切りやがった……どうしてもっと早く心の中をさらけださなかったんだ……バカ野郎
 もっと時間があれば義鷹と心ゆくまで話すことが出来るだろう。
 だが、今はその時間はなかった。
――義鷹とは話す時間がねぇ……今は蘭が……危ない
 義鷹が裏切り、王位をはく奪しようとしている。
 それには雪には分からないような長い時間、計画を立てて蘭をも利用した。
 なのに、自分は天下を執りたくないと矛盾めいたことも言う。
 義鷹がなにを考えているかがさっぱり分からないが、時間が過ぎていることに焦りを覚えた。
――一時間を過ぎちまう
 早く行かないと秀樹に気づかれ、蘭の元へ行くことが出来ない。
――隙を見て義鷹を組み伏せる
 そう考えたが、痺れる体では思うように動かない。
――くそっ、どうしたらいい
 だが、雪ははっと顔を上げて、ジャケットに入れていた携帯電話の短縮ボタンをプッシュした。
――助けに来い、典子 
 はやる気持ちを押さえ、雪は外で待機している典子に電話をかけた。
 ほどなくして義鷹が手に万年筆を持って戻って来る。
「さぁ、雪様。この万年筆でサインして下さい。おや、痺れているようですから、補助致しましょう」
 義鷹は自分が優位に立っていると余裕ぶった態度で万年筆を雪に持たせた。
 そして、痺れている雪の手に自分の手を重ね合わせる。
 ペンを走らせた瞬間、そろりと忍び込んで来ていた典子が竹刀を義鷹の背に振り上げた。
「今川様、お許し下さいっ!」
 典子の強打は義鷹の首元に綺麗に落ち、一瞬で気絶をさせる。
――今はお前の相手をしている暇はねぇ
 雪は床に突っ伏す義鷹を見下ろす。
「良くやった、典子……体が痺れて上手く動けねぇ。肩を貸せ。すぐにここを出て蘭の元へ行く……」
 磨きあげられた床に沈んだ義鷹を見やり、雪は典子の肩に自らの身体を預けた。
――ここで止まるわけにはいかねぇんだ
 雪は固く決意し、その場を後にした。






 





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