河畔に咲く鮮花  




 本気だと分かり、蘭はざっと全身から血の気が引いた。
「む、無理よ。織田家よ? 大勢を率いてすぐにあなたを制圧するわ」
 震える声で、雪の未来の行動を口にする。
 だが、春はそんなことは一切介した様子を見せず、くくと喉の奥を鳴らして笑うだけ。  
「織田に連絡を入れる。指輪とお前を返して欲しくば一人で丸腰でここに来いとな」
 春は必ず雪が来るかのように、そう簡単に言ってのけた。
「……来る………わけないわ……」
 それを聞いた蘭の中に絶望的な闇が蔓延していく。それはあまりにも馬鹿げた要求だ。
 ――指輪を取り返す? 
 ゆっくりと左手に光る指輪を見て、雪が来るはずないと確信する。
 ――これは……ダミーよ……来るわけがない……
 今日だけは、本物とダミーを入れ替えている。
 それは運命のいたずらなのか、真の指輪を持っている雪がわざわざここに取り返しに来る必要性はない。
 ざぁっと全身から血の気が引く音が聞こえた気がした。
――雪は来ない
 春からの無茶な要請に雪が従うわけがなかった。
 命の危機をさらしてまで、蘭を奪い返す可能性は零に等しい。
 黙りこくってしまった蘭を不可思議に思ったのか春は目を細めた。
「急に自信を失ったか? 織田の愛は偽物か? そうとは聞いていないんだがな」
 ――そうとは聞いていないですって?
 春のなんでも知っている言い様に蘭はふと眉をしかめる。
 ずっと敵対して織田家の失脚を狙っている春が、雪の性格をこと細かに知るはずがない。
 それなのに、自信たっぷりにそう言いきれるのは何故だろう。
「織田を良く知る友達から聞いたんだ」
 蘭の不思議がる表情を読んだのか、春はくくっと笑う。
――また、そうやってはぐらかす
 春の言葉はまるで謎かけのようで蘭には正解を出すことは出来ない。
「くっくっ、相変わらずの無防備さだな。覇王の妻である者が、そんな顔をして口をぽかんと開くな。きちんと締めろ」
 その瞬間、春が蘭のか細い顎を捉え、すぐさま唇を塞いできた。
「んっ……んんっ!」
 あまりに素早い動きに対応出来ず、余った手で春の胸板を押すがびくともしない。
 冷たい美貌といつも冷めた物言いからは想像もつかない熱い舌が口腔内をまさぐる。
 蘭は、春からの情熱的なキスを無理やりされながら二年前を思い出す。
 監禁された時に媚薬を飲まされ、意識朦朧だったが、この男の熱は十分に熱かった。
 それだけは忘れかけた記憶の彼方に残っている。
 だが、今回ははっきりした意識の中で、燃える情欲の塊を宿した瞳を見て、蘭は体がわなないた。
 媚薬がなくとも、この男は十分に蘭を昂ぶらせ、その手練手管で蹂躙し、やすやすと屈させる技巧を持っている。
 何ヶ月前にともから受けた、快楽を貪る行為だけにふけさせる。
 そんな風にされてしまうのではないかと恐怖が駆け走っていった。
「――おーい、春……って、気が早いだろっ!」
 かちゃりと無防備に開いた扉から、慌てた声が飛んでくる。
 春はその声の人物に視線を向け、名残惜しそうに蘭の唇から離れていく。
「で、その、なんだ。覇王の記は手に入ったのか」
 キスシーンを見てどぎまぎとしているのか、男は照れ臭そう声音でどかどかと春の元へ歩んで来た。
「――あっ!」
 その姿を仰いで蘭は思わず声をあげる。
 伸びかけた髪は花見の時より長くなり、肩の下まで無造作に垂れさがっている。
 あの時より、引き締まった体躯と、伸びた前髪から覗く切れ長の瞳は青年というより、精悍な男らしさを感じさせた。

「よ、よぉ。久しぶりだな。な、なんつーか、すげぇ、綺麗になったな。いや、もちろん前から綺麗だったが、一層華やかというか、色っぽいというか……」
「唯、無駄口は寄せ」
 唯は春に一蹴され、慌てて口をつぐむ。
――真田唯直……
 変わったのは外見だけかと蘭は内心この朴とつな男、唯に対して安心感を募らせた。
――この人なら、助けてくれるかも
 唯がいれば心の隙をつくことが出来るかも知れない。
 素直で、裏表のない唯は二年前も軟禁から助けてくれようとした。
 それは条件付きではあったが。
 じっと見つめる蘭の視線を感じ取ったのか、唯はカァッと顔を赤らめて慌てて口走る。
「まだ童貞なのかって顔を向けるな。あれから二年だぞ」
 誰も聞いていないのに、唯はこほんと咳き込んで、あさっての方向を見つめた。
 その言い方はもう童貞ではないと含んでいるようにも思える。
 蘭は唯一の突破口が閉ざされた気がして、内心がっくりと気落ちした。
 二年前の唯は、蘭に迫って来た。
 初めての相手をしてくれたら、ここから出してやる――そう言った。
 童貞でないなら、もうその条件は破棄されたも同然だ。
 もちろん、唯の相手をする気はない。
 ただ、経験をさせてあげると誘惑し、心の隙を狙って脱出する。
――簡単には行かなさそう
 思い描いた蘭の計画はまたたくまに崩れ落ちていった。
「くっ、童貞じゃないと言っても、素人童貞だけどな」
 春が口元を歪ませて、唯を嘲笑う。
「は、春っ! それは言わない約束だろ。そ、それにあの時は酔っぱらって、菫街に連れて行かれた一回だけで……記憶ないし。あ〜もう、あんなとこで捨てる予定はなかったのに!」
 唯が慌てた様子で、伸びた髪の毛をわしゃわしゃと掻き乱す。
 蘭はきょとんとしながら、その言葉を頭の中で復唱させた。
 唯は、商売相手との行為は及んだことがあるが、一般の人との間にはまだ情事がない。そう言っているのだ。
 ぱちくりと瞬く蘭を見て唯はまた視線を泳がせた。
「だが、諦めろ。この女は分かっているだろ、唯。こいつは俺のモノにする」
 春の決まった事項のように発する言葉に蘭は目を剥く。
 二年前は春と唯の二人で攻められた。
 乙女こそは奪われなかったものの、蹂躙され、媚薬で体に覚え込まされそうになった。
 だが、今は春は唯にも手を出させない――そう釘をさした。
 ――どういうことなの?
 春はくるりと振り返り、蘭の頬を指の腹で優しく撫でる。
「言っただろう? お前を幸せにしてやる。俺の周りには一切女は置かない。居るのはお前だけだ」
 春の言葉が急に柔らかみを帯びて、蘭はあの時を思い起こした。
 あれは、二年前の雪の屋敷で行われた花見の日
――蘭のまぶたに、ひらり、ひらりと桜が舞い散ってくる。
 春に桜の木立に背中を押しつけられ、同じ言葉をこの耳で聞いた。
 狂い落ちる桜色の花嵐の中、春は真剣でどこか悲しみを交えた瞳をしていた。
 花見の日に、貴族の女や蝶子達にわざと恥ずかしい思いをさせられた時に、春が人目もはばからず助けに現れた。
 あの後と同じような、瞳を今もしている。
 寂しくて一人きりという孤独を味わっていた蘭の心の隙に滑りこんできた、春の真摯な言葉。
『蘭、お前は幸せなんかじゃない』
 春から放たれた心を穿つ強烈な言葉は、昨日のことのように鮮明に覚えている。
 あの頃からその信念は変わらず、揺るぎないもの。
 春の隠された眼帯の奥には、悲哀と絶望が刻まれていた。
 春が隠し通した瞳を見た蘭は、同情し憐れんだ。
 片側の瞳を見られた春は怒ったが、すぐさま蘭に寄りすがってきた。
 まるで、捨てられた迷い子のように。
 春の中ではなにかが生まれ変わったのだろう。
 蘭に心を許し、渇望に似た想いでこれまでを過ごした。
 この二年はただ天下を執る為ではなく、蘭をその手中に収める為に動いてきた。
 そんな情景がありありと思い浮かび、蘭は言葉を発することも忘れた。
「天下を執った時は、お前を迎える。俺の妃として。そういったはずだ」
 春からたたみかけるように言われて、ますます蘭は何も言えなくなる。
 呆れる情念というか、執念というか。
 だが、春の生い立ちを知っている蘭はそれを聞いても笑うことは出来なかった。
――可哀想な覇者達……
 覇者の中でも権力を握る家系の者達に定められた孤独な宿命。
 雪だけではなく、この目の前にいる春も同じだった。
 孤独にうちひしがれた心は渇き、自分を満足させる幸せをとことん追い求める。
 それに向かっていく精神は妥協を許さない。
 生半可な想いでは、渇きは潤うことはないから。
 春はその潤いを蘭に見出し、呆れるほど長い時間をかけて、どうやって手中に収めるかを練ってきたのだ。
 その男を愚かだと笑えるはずがない。
 それほど目の前の男は孤独で、悲しそうだった。
――まだ闇の中を彷徨っているのね……
 絶望の淵から這い出せていないと悟り、蘭は細く溜息を吐きだした。
「今すぐにでもお前を俺のモノにしたいが、止めておく。織田を呼び出してからだ」 
 春はそれだけ決意の意思を表して、携帯電話を片手に取った。
 何コールかして、電話の相手が出る。
「――伊達政春だ、織田か?」
 蘭の目は携帯電話に向き、耳をその内容に傾ける。春が電話をした相手は雪だ。
 だが、雪直属の番号にかけるとは思いもしなかった。
 そんな番号を知っているとは、信じがたいことだ。常に何台も持っている携帯電話の番号は全部違う。
 仕事用に何台、親しき友人用に何台、そして、最も知られていないプライベート用の番号。
 これは側室と名乗った蝶子でさえ知らない、いや、知らされていない――直接、雪が取る番号。
 その他の電話番号はまずは秘書が取って、雪に取り次ぐ。
 プライベート番号など、片手で数えるぐらいしか知らない。
 手に入れるなど超難易度のことだった。
――どうして、伊達正春が知っているの
 なぜ春がいとも簡単に雪の番号を入手出来たのか。
 不安が募り、蘭はただただ、春と雪の会話に耳を傾けた。
「女と指輪は俺が預かっている。無傷で女を返して欲しければ、一時間以内に丸腰で、お前一人でやって来い。指示する場所へ一人で迎え。こちらの車を回す。尾行、護衛、お前が動かすことの出来る兵隊の姿を見つければ、女は殺す」
「――っ」
 春の冷たい声に、雪が電話越しでなにかを叫んでいる。
 春はふと蘭に視線をやると、携帯電話を持ったままぐいっと耳に押し充ててきた。
「蘭っ! 蘭は無事なのか?」
 雪の慌てた声音が飛んできて、思わず蘭は胸を震わせる。
「雪っ! 私よ、蘭よ。怪我はなく、無事よ!」
 蘭の声を聞いたのか、電話越しに安堵の溜息がこぼれてきた。
 だが、蘭はすぐに意を決して雪に伝える。
「雪、ここに来ちゃ駄目! だから、絶対に――」
 そこまで言って、耳から携帯電話を離された。思わずその残像を辿り、宙を仰ぐ。
「声を聞いただろ、無駄話で一時間を切った。さぁ、早く来い」
 携帯電話は春に戻り、淡々とした様子で雪に指示をした。
 雪が何かを叫んでいたが、春はぷつりと電話を強引に切る。
「くくくっ、織田よ、やって来い」 
 春は携帯電話をしまいながら、冷たい微笑を浮かべる。
――雪……来てはいけない
 蘭はいつまでも来ては駄目と力なく首を振り、絶望の底へ心が沈んでいった。







 





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