河畔に咲く鮮花  




 * * *

 ともの姿が遠くなっていく中、浮かない顔をしている公人の横顔をそっと蘭は盗み見する。
 さきほどから口は重く閉ざされていた。
「どうしたの、公人君?」
 様子が気になりどこか遠くを見つめていた公人に声をかける。
 窓ガラスに映る公人の顔は陰鬱として考え込んでいる。
 その綺麗な顔は少しだけ困惑の表情を滲ませていた。
 稲光を浴びた公人の顔は青白くこの荒れた夜に浮かび上がる。
「ねぇ、公人君!」
 蘭が公人の肩をゆさゆさと思い切り揺さぶっては、こちらに意識を向かせた。
 ようやく我に返った公人は、ゆっくり振り返ると、失礼しましたと軽くお辞儀をする。
「なにを考えていたの?」
 蘭の問いに公人は一瞬だが言葉を詰まらせた。
 視線も泳いで、どことなく言いづらそうである。
「へぇ〜私に隠しごとなんて公人君もいい度胸ね」
 蘭がつんつんと公人のお腹を突いて、なんとか吐かそうとした。
「大したことではありません。蘭様、突くのはお止め下さい」
 公人が身をよじり、蘭の手から逃れる。
「じゃあ、教えてよ」
 蘭がむっつりとした声音で言ったからか、公人は観念したように口を開いた。
「本当に大したことではないんです。ただ、徳川様の言った意味を考えていました」
 公人は視線を落として、綺麗な眉をしかめる。蘭は意味が分からずに首を少しだけ傾げた。
「とも君の言ったこと?」
「はい、チェスゲームの時のことです」
 公人はひと呼吸置いて人形のような顔を少しだけ崩す。
 「チェスはキングを取れば良いゲームです。ですが、徳川様はクィーンを取られるなとおっしゃいました」
 公人はふいに言葉を途切ると重々しく口を開いた。
「徳川様に取って最強の駒はクィーンであるような言い方で――まるでそれが……」
 そこまで言って、公人はますます眉をしかめると、蘭の顔を心配そうに見つめる。
――公人君……
 チェスゲームの後も公人は今と同じような表情で、ともに視線をぶつけていた。
 ざばざばと雨が激しさを増し、窓ガラスを叩いて不安が広がっていく。
 なにが言いたいのかが分からず、蘭は見つめてくる公人の顔をただただ見据えた。
「――すみません、不安を煽る言い方をしました。もう、考えないようにします。徳川様も奥方を貰うとおっしゃっていましたしね」
 公人はふと視線を外して、また窓の外に顔を向ける。
「……そうだよね、あのとも君が結婚かぁ。たくさん候補者が募りそうだね。仲人として、失敗しないようにしなくちゃ」
 蘭は無理に笑うと、明るい声を出した。
 義鷹の屋敷の頃から時間は進んでいる。
 ともは徳川の当主となるべく、未来を見据えて歩き始めた。
 蘭もいつまでもあの夜にあった過去のまま止まっているべきではない。
――とも君も謝ってくれたし……もう考えないようにしよう
 蘭は過去を封印し、これからの未来を考えた。
 気持ちを入れ替え、蘭は帰って雪に報告しようと心を躍らせた。
 ともが徳川の当主になると言ったら、雪はきっと目を剥いて驚くだろう。
 あいつに務まるかなどと悪態を吐いては、心の中では心配をする。
 そして、同じく肩を並べるともを思い描いては、喜びの笑顔を浮かべるはずだ。
――絶対に雪なら言う、賭けてもいい
雪の手に取って分かるような心情にくすりと微笑んだ。
 それを考えると、蘭はこの嵐の中でも気持ちが晴れて嬉しくてたまらなかった。
――とも君と雪なら大丈夫よね
 これから先の不安は掻き消されて、希望だけが明日を照らす。
 そう、眩しい光が敷かれていると蘭は思った。
 そんな熱い気持ちを心に抱え、雪の待つ屋敷へ車は走って行く。
 それでも運命はなかなかと蘭の思い描くようにはならない。
 なにかの試練であるのか、蘭の前に不幸は舞い降りた。
 バンッとこの雨の中でも聞こえるほどの大きな音が耳に届いてくる。
――どうしたのっ?
 その瞬間、車体は大きくぶれて、乗っていた蘭と公人の体は揺さぶられた。
「蘭様っ、僕におつかまり下さい!」
 じぐざぐに進む車の中で、公人は蘭の体を伏せさせ、その上から庇うように抱きこんだ。
 車は路面をスリップして、レールにぶつかるとようやく止まる。
――車は……止まったの……?
 ざあざあと雨の音が耳に戻ってきて、蘭は公人と共に体を起こした。
 前を見ると運転手はハンドルに突っ伏して気絶しているようだった。
 急停車であったが、公人と蘭はシートベルトを締めていたために体を傷つけることはなかった。
 もう一台、護衛の為についていた織田家の車の姿も見えない。
 助手席に乗っていた、護衛が意識を取り戻して、首をこきこきと回す。
「……奥方様、公人、大丈夫でしょうか? どうやらタイヤがパンクしたようです。トランクに予備がございますので私がすぐに入れ替えます」
 護衛が機敏に動くと、助手席から降りてタイヤの交換をすべくトランクを開けた。
「はぁ。危ないね。タイヤがパンクするなんて。運転手さん、大丈夫かな」
 蘭がよいしょと身を乗り出して、運転手の様子を窺う。
「多分、気絶しているだけでしょう。運転に差し触りがあるなら、僕が変わってもかまいません」
 公人が上質なスーツの上着を脱いで、蘭の肩に羽織らせた。
「夏といってもこの天気では風邪を召されるかも知れません。しばらく羽織っていて下さい」
 公人は細かいことまで良く気がつく。
――公人君って……本当に気が利く
 女性より、気遣い屋な公人を見て蘭はなんとなく負けた気がした。
――って、男の公人君に嫉妬してどうするのよ
 そんなことをぼんやり考えながら蘭は公人の横顔を見つめる。
「蘭様、ご心配なら僕の肩をお貸しします」
 公人が蘭の視線に気がついたのか、優しく微笑んでくれた。
――公人君って優しい……モテるんだろうな
 蘭はのんびりと思いながら、タイヤ交換を終えるのを待っていた。
「ガッ!」
 トランクを開けた護衛から不穏な声が聞こえてきた。
 その叫びはこの雨の中に一瞬で掻き消されるが、蘭は窓の外を見つめる。
 降りしきる雨の中で視界は悪く何が起こったか分からない。 
 だが、公人はすぐに異変に気が付きサッと顔を強張らせた。
「蘭様、すぐに出発しましょう」
「どうしたの、公人君?」
 蘭の問いに公人は何も答えない。
 珍しく冷静沈着を欠いた様子で公人は、慌ただしく後部座席から運転席に身を乗り出した。
「すぐにここから離れますっ!」
 公人が運転手を力づくで横にどけて、トランクが開いたまま車を発進させようとする。
 だが、ハンドルを掴む手は外からの侵入者によってすぐに押さえつけられた。
「二人だけで逃げるなんて野暮なことはするなよ」
 この雨の中でもはっきりと聞こえる男の声。
「蘭様っ、逃げて――」
 振り向いた公人の頸椎に男の太い腕が振り下ろされた。
「公人君っ!」
 公人の体はぐらりと揺れて、シートに沈んで行く。
「公人君っ!」
 君人に手を伸ばす蘭に男のにやついた笑みが降ってくる。
「さぁ、楽しいゲームの始まりだ」
 いつの間にか車は数人の男達に囲まれていた。
――絶望的だわ……
 蘭は恐怖におののき、激しく打ち付ける雨の音を、悪夢のようにいつまでも聞いていた。






 





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